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第42回交流会「活き活き草萌え花咲く春の森」


2024年4月29日(月・祝)
参加者10名
  10:00三崎口駅集合に8人。10:30水道広場で2人参加したので10人で開会のオリエンテーション。4月20日に見た開花している植物他のリストを資料として渡しました。植物やその他の生き物の名前を知ることは覚えた人の世界を広げる。人に絶望したとき、癒やしてくれる世界を持っていると良いという筆者の持論を披露して、始めました。下見の4月20日とそれ以降に咲いた植物に感嘆したり、何年ぶりかにフデリンドウの花を3株も見つけたりしました。この日はあいにく曇だったので、花は閉じていました。この花は太陽がでていないと開かないのです。何か私たち人間の心に似ているような気がして一層可愛いと思える草ですね。20日には2株だったのですが、29日には3株みつけました。

初開花 黄色いマメ科 お前の名  ぐねぐねとくねり ジャケツイバラとぞ
満開の フジ房垂れて 我らを迎え
ヤマツツジ ミドリとダイダイ 目立つ森
 12:00ヤナギテラスで休憩し、鳴いていて欲しいシュレーゲルアオガエルの鳴き声をコロロ コロロと唄にした「蛙の笛」(作詞:斎藤信夫、作曲:海沼 実)を紹介してみんなで歌いました。日本の固有種でドイツ人のシュレーゲルさんが命名したそうです。丸いうす黄色のボールのような泡の中に黄色い小豆大の卵を産みます。最近は冬に水がない田んぼが増え生息環境が悪くなっていると考える方もおいでだそうです。昔は夜もすがら自分の存在を知らすべく鳴いていたんでしょうね。子守唄というたとえは田んぼが誰でも身近にあった時代の様子を伝えますね。本当はうるさかったのかも。因みに「蛙の夜回り」という童謡もあります。この蛙はガアッコガアッコ ガアッコと鳴くように表現されているので、ガマガエルと筆者は考えています。作詩は野口雨情、作曲は中山晋平です。「蛙の合唱」の蛙は何蛙でしょうか。輪唱で歌うことが多いですね。一斉ではなくバラバラに鳴いている蛙は輪唱がふさわしいのではないでしょうか。
 12:30頃 エノキテラスを通過、宮前峠アカテガニの冬眠の様子を明かりで照らして観察。しっかり、はさみを閉じている姿を見て安心。ペルルカフェで昼食を摂り解散後、14:00ちょっと過ぎ、北尾根コースへおひとり、戻って引橋へいく方がふたり、残りの7人で義士塚コースを取ります。筆者は義士塚コースだったので、ゆっくりストックをつかい、台地へ登っていきます。以前、森の周りを歩く企画で森へ降りていくコースとして使ったことのある道です。軽トラが通れるような道で秋にはワレモコウやツリガネニンジンなどが見られました。農家の方が畑の斜面の草を草刈り機で刈っています。今日はアカバナユウゲショウやコバンソウやツキミソウなどが見られました。大きなイチョウの木が4本もある大きな農家の脇にでると油壺からの道に出る。随分前に南の谷を登りつめた時、この大イチョウの木にであったことを思い出しました。ぎんなんを拾ったと話すMさん。
 車道に出て東に歩くと畑の中に緑色の円形の土まんじゅうが見えます。義士塚です。第38回交流会で須田先生がきちんと調べられてはいないけれど円墳ですと教えて下さったのだ。北条氏に攻められたとき亡くなった北条方の武士を埋葬したこという言い伝えがあり、古くからあった円墳がその地にふさわしく地元で義士塚として大切に守られてきたのではないかと教えて下さった。長い間つぶされることなく畑の中に存在しています。新しい家が両側に建てられている道を歩き、松輪入り口につき、バスに乗る。 引橋で降りて、ベイシアに向かい、三浦市民交流センター(ニナイテ)に部屋を借りて今日の交流会の反省と次回の交流会についてのスタッフ会議に参加しました。 ※後日参加者感想を読ませていただきましたが、当日見つけられなかった植物があったそうなので、 もっと丁寧にゆっくり案内すれば良かったと思いました。来年もお楽しみに。
以上報告 宮本美織 写真:浪本晴美



見られた昆虫類

ナミテントウ シマアメンボ タンザワフキバッタ アサヒナカワトンボ ヤブキリ  ナミアゲハ アオスジアゲハ 
モンキアゲハ ジャコウアゲハ ベニシジミ  カラスアゲハ クロアゲハ

確認できた鳥類(A.Kさんの記録)
カラス トビ コゲラ イソヒヨドリ スズメ モズ(オス) サギ(ダイサギまたはチュウサギ) 声のみ:ガビチョウ ウグイス メジロ ムクドリ シジュウカラ コジュケイ ホオジロ

ミニ図鑑
小網代の森に咲く春の花を印刷して1枚のA4の紙から16ページの本を作る魔法のような、技を使ってスタッフのNさんが参加の皆さんに配布してくれました。都合が悪くて森に来ることが叶わなかった会員さんに同じ紙を同封しました。1番から折っていくと可愛い本ができます。

蛙の笛 (おそらくシュレーゲルアオガエル)
♪月夜のたんぼでコロロ コロロ コロロ コロコロ 鳴る笛は あれはね。あれはね。
あれは蛙の銀の笛 ささ銀の笛
♪あの笛聞いてりゃ コロロ コロロ コロロ コロコロ 眠くなる あれはね、あれはね。
あれは蛙の子守歌 ささ子守歌
♪蛙が笛吹きゃ コロロ コロロ コロロ コロコロ 夜が更ける ごらんよ。ご覧よ。
ご覧 お月さんも 夢見てる ささ夢見てる    作詩 斎藤信夫 作曲 海沼実  (代表曲 里の秋)





 


遠足「南下浦遺跡探訪会」


3月20日(水・祝) 講師:須田英一先生
参加者 15名
天気予報をにらんで実施できるかどうか気をもんでいましたが、幸い早朝まで降っていた霧雨もやみ、暑くもなく寒くもないちょうど良い天気になりました。
 葉桜になった三浦海岸駅前の河津桜の下のベンチに集合(写真-1)したのは、ご案内下さる須田先生を含め13人。剱崎行きバスに乗り途中のバス停から加わったご夫婦も入れて、総勢15人となりました。終点で下車し、これからの予定やだいたいのコースを説明し終えると、早くも須田先生は江奈湾に向かって下りになるバス道路(写真-2)に向かい、「ここが松輪大畑遺跡です」と説明を始められました。道路を造るときに遺物が出てきて、特に珍しいのは、弥生から古墳時代とみられる「方形周溝墓」が三浦で初めて2基見つかったということです。方形に溝を掘り、中央に埋葬する墓で、埋葬されたのは庶民ではなく、ある程度の有力者だったらしいということです。
 剱崎灯台に向かう道の途中から斜め左下に降りていくと、のどかな畑の間の道です。先生はたびたび立ち止まって地面を見て何やら見つけられます(写真-3)。「これは弥生土器のかけらです!」みんなは「ええ?植木鉢のかけらじゃないの?」とびっくり。今のものと並べても私たちには見分けがつきませんが、こんなところにも古代からの伝言が見つかるのですね。
  間口の海に出て「間口A洞穴遺跡」へと、民家に隣あった石段を登ります(写真-4)。昔神社だった平地の奥に薄暗い洞穴があり、ここから弥生時代の土器や漁労に使ったイノシシ等の骨角製の道具や、人骨などが見つかりました。生活の場として、墓地として使われたということです。また古墳時代の層から、日本で初めて亀の甲を使って焼け火箸のようなものをあててできたヒビで占う「卜甲」が見つかり、祭祀の場にもなっていたそうです。この洞穴は暗いだけではなく、落石の危険や圧迫感のようなものを感じ、ちょっと入ってみる気にはなりませんでした(写真-5)。
 ここから湾に沿って、東側にある「大浦山洞穴遺跡」へと向かいます。またもや先生は何か見つけられたようです。「素焼きの網のおもりです。相当古いものです。弥生っぽいですね。ほら、形を作るとき握った手の跡が残っているでしょう。網についている今のものと、形はかわりませんよ」。本当だ、大きさも色も形も、私たちには見分けがつかないくらいそっくりなのです。またタコ糸のようなものを巻き付けたような凹みがあって、側に打ち捨てられた近現代のおもりが、実際に糸を巻いて棒状のものに取り付けられているのに驚きました。弥生の技術が現代に継承されているとは!
 間口港の奥は開放的な広場だったのに、この3月から柵ができ、有料の駐車場に変わってしまいました。最奥の一段高くなったところに、大浦山洞穴遺跡の説明板が建っていますが、新しくQRコードがついていました。間口A遺跡と違い、こちらは随分と高くて大きな洞穴です。みんなで中に入って先生のお話を聴きました(写真-6)。弥生から平安にかけて使われた洞穴で、土器や、回転銛頭など獣の骨角製の漁具、側壁に石で囲われた墓、破壊され投げ込まれた少なくとも13体の人骨など、多彩な出土品があったそうです。弥生時代には墓と住居としての利用、ということは近しい人のお骨の側でくらしていたのでしょうか。程度の差はあれ、遺骨は敬意をもって埋葬されてきたのに、13体の穴が開いた頭骨にはどういう意味があるのでしょうか。縄文人と弥生人の抗争、他のグループとの争い、部族内の争いなどいろいろなストーリーが考えられます。正解は永遠にわからないのでしょうか。そこがまた想像力をかきたてます。
 移動中、崖の擁壁の下になってしまったけれど、三浦半島の海蝕洞穴遺跡の中で最も早い、縄文時代の土器などが発見された、「松輪間口東洞穴遺跡」についてもお話いただきました。この洞穴は標高8mと他の洞穴より高い位置にあるので、離水が最も早く、したがって乾燥して人が住める状態になるのも、最も早かったと考えられるそうです。
 大浦山遺跡は大浦山洞穴遺跡の山の上、標高30mにあって(写真-7)、ここからは縄文早期の土器が見つかり、これまでのどの様式の土器とも異なる特徴的な撚糸文だったので、大浦山式土器と名付けられました。それは土器の年代を測るための、ものさしの役目を果たす標式土器の一つで、三浦市内には他に鵜ガ島台、三戸、諸磯と4つの標式遺跡があることになり、誇らしいことだと言えます。
 この山の東端には、幕末期に台場が作られ、日清日露戦争にも、太平洋戦争にも備えた戦争遺跡があったということは、初めてお聞きしました。
  北どなりの大浦海岸でお弁当(写真-8)。日差しが暖かく、風もやんで最高のランチタイム!トンビに気を付ながら、砂浜と岩場の景色をゆったりと楽しんでいると、「この石垣もブラフ積ですよ!」と先生。明治期、横浜の山手地区から広まった、西洋の煉瓦積をまねて日本の石工が、日本の石材で積み上げた石積みの方法で、明治大正期に流行ったそうです。造られた年代を調べていくと横須賀、三浦の街のでき方が解ってくるかもしれないと話されました(写真-9)。
  午後一番目は、「ヤキバの塚」という畑の中の小山状の遺跡(写真-10)。てっきり、地域の亡くなった人を近世までここで焼いた場所かと思っていました。先生によると、地域の境にある場所で、祟りがあるから近づくなと、子供たちに警告するためにつけられた名前だとのこと。実は、明治初期から昭和30年代まで地域のゴミ捨て場として使われていて、それがたまって塚のようになったことが、調査によって分かったそうです。警告のおかげか荒らされることもなく、廃棄物が年代ごとにきれいな層になって残っているので、生活様式の変化が分かる興味深い遺跡になっています。鉄漿(おはぐろ)用の壺が明治の終わり頃まで使われていたり、昭和の初期までランプや火屋(ほや)が使われていて、戦中にようやく電球が使われるようになった様子がうかがわれます。これはもう立派な民俗館のようで、こんなのも考古学の範疇なのですね。
 次に向かうのは「剱ケ崎砲台跡」。足もとの不安定な下りの近道を進み、谷を越えて北上します。台地に出てすぐの畑の中に、コンクリート製の2つの大きなドーナツに遭遇(写真-11)。これが昭和初めに造られた、カノン砲を据えた砲座の跡。城ケ島公園では花壇として使われていましたが、こちらは農家が大根の要らないのを放り込んだりしています。少し北側に、「(金堀塚)探照灯庫」の壁が見えます(写真-12)。小さなコンクリートの部屋になっていて、背後は建物をすっぽり覆い隠すように、土を突き固めた小山となっています。
 さっきから風が出てきたと思っていたら、空には怪しい雲が。ポツンと雨。行程を急ぎ、さらに北上すると雨崎の丘に出ます。丘の南麓にはいくつか穴が開いていて、それが「雨崎横穴墓群」(写真-13)。続いて西側に回ると、中腹に「雨崎洞穴遺跡」の白い岩陰(写真-14)が見えました。急に小雨が降り出し、遠雷も聞こえてきたので、仕方なく二手に分かれ、そのまま進んで近くの東部浄化センターの建物に避難する人たちと、どうしても洞穴を見たい人たちに分かれました。残った人たちはササッと洞穴(岩陰)を見て、先生も短めに解説していただきました。私たちが昨年見学した「赤星直忠博士文化財資料館」で驚いた、子供の遺体が入ったままの古墳時代の木棺は、ここで見つかったもの。他にも火葬のあとや、多くの人骨や勾玉などの副葬品が出土しているそうです。横穴、洞穴、古墳と集まっていて、この辺りは墓域としての役割を担った地域だったのだろうとのお話でした。 安全のため、丘のてっぺんにある「雨崎古墳群」はパスして、東部浄化センター(写真-15)へと急ぎます。幸い、みんなと合流する頃には雨もほとんどあがっていました。台地の上を歩くのはやめて、海沿いにバス道路に出ました。数人の方が鋒(とがり)バス停でお別れ(写真-16)。 残った私たちは金田漁港でトイレ休憩後、岩浦(いわぶ)バス停近くの崖の上部に掘られた「岩浦やぐら群」を見上げ、3穴まで確認。中に石塔が入っていたり(写真-17)、壁に掘り物があったりするそうで、もっと近くで見てみたい!それにしても当時の人はどうやってあんな高いところに穴を掘り、どうやってお祀りしていたのだろうと考えていると、参加者の一人が、昔の道はずっと上についていて、昭和になって岩を切通して今の道になったと、地元の人から聞いたことを教えてくれました。納得です。 さらにこの先に昔の道があると教えて頂き、探検気分で行ってみました。三浦義村の墓(写真-18)から八坂神社に上り、少し先のバス通りに出たところで、お二人がさようなら。残った7人でどんどん歩いて、「高抜機銃掃射場」(写真-19)を見学しました。こんな穴ぐらに入って、上陸してくる米軍を阻止しようと考えていたのでしょうか?実際には使われなかったそうですが。 高抜バス停で15分待つ間に本ぶりの雨がやってきましたが、商店の庇を借りて避難。三浦海岸駅で無事解散となりました。 皆さんそれぞれの状況に合わせて、事故もなく、よく歩き通されたものです。異口同音に面白かったと満足して帰られました。 南下浦地区だけで縄文から近世まで、洞窟、塚、古墳、横穴、やぐら、戦争遺跡と、さまざまな遺跡に恵まれていることに気づかせていただきました。先生と歩いているだけでいろんな発見があったり、考古学的な目線を教えて頂いたり、楽しくワクワクな一日でした。本当にありがとうございました。 再度日を改めて、廻りきれなかった雨崎周辺の遺跡から白山神社や法昌寺まで、皆さんとめぐりたいと思っています。
記:松原あかね  写真:浪本晴美 木皿直規


 

 


遠足 光の丘水辺公園「ニリンソウ鑑賞会」


 

 

 

 

 

小網代を詩う

 

 






 

 

 



スタッフ研修 第9回三浦の海岸歩き「諸磯」


2024年2月17日(土)
参加6人 薄曇り

地図とにらめっこして下見をし、どのコースを歩くか決めるまでの過程はいつもワクワク楽しい。
 今回は、バス停から前回到達した海外の海までどうたどり着くか、まずそこから考える。あら意外、最も近いバス停は三崎東岡だった。ここがそもそも西海岸線道路に最も近いバス停だったんだ!
  バスを降り海に向かって西方に歩き出す。すぐそばの東岡公園は木や草が茂り緑が美しい。不定形の谷に降りていくような、ベンチがあるだけの公園。中ほどに少女が空に向かって手を挙げている素敵な像があった(写真-1)。スタッフの一人が陶芸を習っている角野竹博さんが、三浦市の依頼で製作されたものである。よいこの町元年記念の「きらめき」という作品だった。ここからは海や、晴れていれば富士山も見えるという。迷わずこのルートを採用!
 17日当日、薄曇りで残念ながら公園から富士山は見えなかった。
 例によって小さな階段を降りて進むと、地層の標本のような岩壁に遭遇(写真-2)。上部は三崎層のスコリア(黒)とシルト(白)のミルフィーユ、下部はペイズリー柄で、斜めに断層が走り、左右がずれている。左側にはスランプ構造が・・・。諸磯の半島に着く前に、すでにここから地層の勉強が始まってしまう。
 海外の漁港に出て北西方向に進むと、神奈川県指定天然記念物、「海外町のスランプ構造」はすぐだ(写真-3)。海底に堆積した砂泥がしっかり固まらないうちに、地震などによって地滑りを起こして褶曲し、その上にさらに砂泥が下部の地層と平行に堆積したのがスランプ構造だ。城ケ島でもたくさん 見た地層。シルトとスコリアが交互に堆積してできたミルフィーユ(互層)がきれいな山なりの曲線を描いているところが典型的なスランプ構造ということで、天然記念物に指定されたという。
 面白いのはこの崖の裏にトンネルのような穴があいていて、そこがまさに「海外第一洞穴遺跡」(写真-4)になっていることだ。今は倉庫のように利用されているが、弥生時代は生活の場として、古墳時代から中世には墓地として使われていたという。
 道沿いには次々と、洞穴や、うねりくねったスランプ構造(写真-5)や、バームクーヘンのかけらを埋め込んだような地層(写真-6)が現れ、飽きることがない。半島の付け根にある「三浦 海の学校」の手前から、岩だらけの海岸に下りる。
 すぐに、黒っぽい岩に白い石を投げ込んだような模様の地層(写真-7)に遭遇。これは諸磯の半島中に多く見られるもので、インジェクタイトというそうだ。地層がまだ固まっていないときに、地震などによって液状化し圧力が高まって、上部のより硬い地層の隙間から噴き出してできたものだという。(横須賀ジオツアー第4回浜諸磯の地層観察 横須賀市自然・人文博物館)
 液状化して噴き出た素材によって、色や大きさ形も様々で、先ほどのバームクーヘンもその一例だったのか。とにかく何百万年も昔、深海で地震や海底地すべりが起こって、物凄い力で地層が攪乱され、礫や泥岩やバームクーヘンのような地層の一部を含んだ岩など、もろ共に、上部の硬い三崎層の互層の隙間を突き破って噴き出したというわけだ(写真-8)。
 白黒の互層も海底での大暴れを反映して曲がりくねり、絵をみるようなおもしろさ(写真-9)。小さく穏やかな入り江がいくつもあって、潜水も盛んらしい。いつもエアボンベが置いてある(写真-10)。
 いろいろなインジェクタイトを見て、シルトのごく薄い層(ラミナ)からなるみごとな大理石の彫刻のような岩(写真-11)を見て、逆断層(写真-12)や生痕化石にも遭遇。生痕化石は生き物の生活のあとが化石となって残ったもので、巣穴のあとらしい。ゴカイのような生き物だったのだろうか。よく見ると先端に小さなつぶつぶが見つかり、何とウンチの化石だそうだ(写真-13)。生痕化石はあっちにもこっちにも見つかる。
  難しくてよくわからないながら、ここでは次から次といろんな地層が現れ、飽きることがない。
 浜諸磯近くの磯でお弁当。浜諸磯は東西の台地に挟まれた低地で、大嵐の時まるで南北の海が繋がったかのように、水に浸かったことがあるという。今は公共施設が建つこの辺りは「浜諸磯遺跡」で、奈良平安時代の製塩土器や人骨も発見されている。大量に出たカツオの骨は、脊椎骨が削がれていることから、ここで三枚におろした身を塩漬けにし、税として都へ納めたのではないかと思われている。
 諸磯神社(写真-14)の脇を通り、西端の灯台(写真-15)に出る。足もとには非常に複雑なインジェクタイトが(写真-16)。南側に回り込むとシルトの層の中にスコリアのスランプ構造が(写真-17)。しかもズタズタに切れている。太古の深海での地層の動きの激しさが想像される。北側の海に出て油壺を遠望する。 浜諸磯のバス停を過ぎ、すぐ北にある民宿の駐車場の崖に、掘られたような穴が横並びに数個みえる。「浜諸磯やぐら群」という遺跡だ。鎌倉時代の武士や僧侶のためのお墓で、中に五輪塔や仏像があったり、岩壁に掘られたりするが、ここでもそれらしい石の欠片などが地面に落ちていた。「やぐら」(写真-18)がすぐ目の前に見られる貴重な場所である。
  道は登りになって、東に向かって台地を歩いて行く。11月に須田英一先生に案内して頂いた「諸磯遺跡」を経て、天神町バス停から帰途に着いた。

記:松原あかね 写真:浪本晴美

 

 

 

 

 

サロン小網代「ヤマビルの話」

祖父川精治

 蛭、蝮、虻、蚋など大嫌いな生き物の文字を見ただけでも、嫌悪を感じる人は多いと思う。
 それが実物を見たらどうなるのか、山歩きで出会う機会があり最近とくに話題となっているヤマビルについて取り上げてみる。
 蛭と名付けられた山や地域が各地に散在するが、最も有名なのは神奈川県丹沢山地の最高峰である蛭が岳「1673メートル」。文字どおり東丹沢地区は蛭の生息地として知られ、特に雨季である初夏の登山は控えるようにといわれてきている。蛭に取り付かれても痛くも痒くもない。靴下を脱ぎ足元が血だらけになって始めて気付くことが多い。
 現在では、春から秋まで出没しているようである。そして年々、大きく生息地域を広げてきている。地域によっては、登山口にヒル注意の看板と蛭除けの、塩の入った箱が用意されているのを見ている。
 ヒルが生息できないような自然環境を整備した。日当たりが良くなるよう木立を剪定し空間を拡げる。下草の刈り払いを行い、落ち葉の除去。駆除物質としては、薄めた木酢液、食塩水、粒状の塩化ナトリュウム「道路の融雪剤」の散布を行った。
 ある市や町では、今まで見たこともない山間部の住宅地や畑の周辺部などへ進出するようになってきた。駆除物質の散布についても、高濃度なものや多量の薬品を散布することは、ヤマビルには効果があっても、周辺地域への農作物や環境汚染等の配慮が必要となる。
 ヤマビルが生息地域を次第に広げて行く理由を考えて見ると次のようになる。 野生動物、とくに丹沢地区に数多く生息する二ホンシカの蹄の隙間や臀部へ取り付いて移動する。
 ヤマビルを検査したらシカの血液が最も多かったという。次いでヒト、登山者やハイカーが山中でヒルに取り付かれる。下山してから気付き、靴中や足元から引き抜き投げ捨てる。その周辺地域で生息していくことになる。可哀そうだが即踏みつぶして、息の根を絶ってほしい。
 丹沢のある山から下山した時に、周辺地域の人達はヒルのことで怒っていた。絆創膏を止血用にいつも持参しているのだと見せてくれた。取り付かれた実例では、先頭より二番手の人が多いという。
 ある丹沢の登山口では、「ヒル除けの薬あります」の看板を見ているし、登山用品店でもヒル除けのスプレーありますのチラシがあった。
 地元の厚木市、伊勢原市、秦野市では合同の丹沢大山のパンフレットを発行している。そして末尾にヤマビルのことを紹介している。
  ヤマビルに注意してください。吸血されないためには、靴下や長靴を用意するとともに、服装の隙間をなくし足回りに忌避剤を一面に塗布し予防しましよう。吸血行動が活発に見られるのは4月から10月で、特に気温25度前後、湿度70%程度の日は注意が必要です。

 

 

 

 

追悼  藤崎英輔さんを偲ぶ

毎年12月の初めに、当くらぶの会員さんにも呼びかけて行う忘年会「縁の会」の常連でいらした。昨年12月4日の会には、三浦海岸駅へ迎えに行ったスタッフと出会えず、三浦海岸駅からバス停一つ分を自力で歩いて見えた。帰りはスタッフの一人が上大岡駅の改札までお見送りをした。その時は誰の目にもお元気そうに見えていたのだった。また4月にお目にかかれるものと思っていたが、お嬢様から「3月に‥‥」というご連絡をいただいた。スタッフ全員が信じられずに落胆の声をあげたのだった。 藤崎さんは神奈川県環境部次長までされた元県職員で、当時ゴルフ場問題で揺れていた小網代の森の事について良く知る方だったのではないかと思われる。その際の事については私たちに話しては下さらなかったが保全する、しないの渦中においでだったのではないかと推察している。当然、私情がはいる隙間もなかったと推察されるが、1990年、横浜国大の故 宮脇昭博士が中心になって、第4回国際生態学会議が県内各地でエクスカーションやシンポジウムを行った。その計画記事が神奈川新聞に出たときにエクスカーションの場所が丹沢等、他には未だ決定していないような記事が出た。そこで、国際生態学者の皆さんにも是非、小網代の森を訪れて頂きたいと当時運営に携わっていた県の環境部に小網代の写真や絵葉書、生きものの手製のガイドをまとめて送った記憶がある。国際生態学会議ではポスター発表のパネル作成に参加し、発表会場にも出向いて見て貰えるように声をかけたりした。これが功を奏したかどうかは不明だが幸い小網代はエクスカーションの一つに選ばれ多くの外国の著名な生態学者たちが森を訪れ、江ノ島で行われた発表もあり、小網代の森保全が一歩進むことになったのだ。 上記の事等に加えて、藤崎さんは県が進めているトラスト運動を一県民の立場から積極的に応援されていた。パンフを配るだけでなく神奈川県みどり基金への寄付もされていた。かながわトラストみどり財団からの通信の寄付者名には、毎号藤崎さんのお名前の記載があった。アカテガニ放仔の夜に奥様を伴ってみえたこともあった。 小網代の森を守る会、小網代の森と干潟を守る会、こあじろの森くらぶの会員として、森の行事に参加して下さった。スタッフの皆が、藤崎さんの参加でどれほど、励まされた事だろう。 小網代の森が大好きだと公言されたこともあった。上記の事情から、多少とも仕事で関係のあったところへはその後の様子を確認するためにも足を運んで下さっていた。この度の事は小網代の森とこあじろの森くらぶのスタッフにとって、大きな痛手となった。 藤崎さんの今までの森への応援に感謝し、これからも美しく豊かな緑の谷であるように働き続けて行きますと天の藤崎さんにお伝えしたい。   合  掌

2024年5月8日 宮本美織

 

 

 

 

こあじろの森くらぶ NEWS

スタッフの活動

2024.03.22(金);   通信編集会議(リモート)
2024.03.30(土)   遠足 光の丘水辺公園「ニリンソウ鑑賞会」
2024.03.31(日)   通信40号発送作業
「赤星直忠博士文化財資料館冊子」小網代の歴史を訪ねてみようシリーズV発送
2024.04.06(土)   スタッフ研修 第10回海岸歩き「油壺」
2024.04.14(日)   スタッフ会議(リモート)
2024.04.18(木)   スタッフ研修 「変形菌探し2024@光の丘水辺公園」
2024.04.20(土)   第42回交流会下見
2024.04.21(日)   スタッフ会議(リモート)
2024.04.29(月・祝)   第42回交流会「活き活き草萌え花咲く春の森」
スタッフ会議(於 ニナイテ)
2024.05.02(木)   第43回交流会案内ハガキ投函
2024.05.12(日)   スタッフ会議(リモート)
2024.05.19(日)   通信編集会議(リモート)
2024.05.23(木)   スタッフ研修 「変形菌探し2024@光の丘水辺公園」
通信編集会議(リモート)
2024.05.25(土)   第43回交流会「ホタルを見に行こう2024」

 

光の丘水辺公園ハンゲショウ群生地公開のお知らせ

光の丘水辺公園から今年もハンゲショウ群生地公開のお知らせが届いています。 ぜひお出かけください。
期間:2024年6月22日(土)〜6月28日(金) 規制区域開放時間:午前10時から午後3時まで
光の丘水辺公園HP:https://www.ryokukazouen.jp/mizube/entry
水辺公園管理事務所電話/FAX:046-849-7650
その他の観察会、公園からのお知らせは https://www.ryokukazouen.jp/mizube/entry 
をご覧ください

 

 

 

 

スタッフ研修「海岸歩き」   次回は秋に予定しています

スタッフ研修「変形菌探し2024@光の丘水辺公園」

スタッフ研修ですが、興味をお持ちの方はご参加が可能ですので、ご連絡ください。天候などの条件により、中止または日程変更になる場合があります。
日  時:2024年6月16日(日)
集  合:10:00光の丘水辺公園管理事務所前集合
持ち物:長靴、虫眼鏡、お弁当、飲み物
連絡先:staff@mori-club.com(メールの件名に「変形菌」とお書きください)

 

 

 

 

会員更新のお知らせとお願い

 来る2024年6月30日をもって、こあじろの森くらぶの2023年度が終了し、7月1日より2024年度が始まります。年度変わりにあたって会員更新のお手続きをお願いしたく、年会費の払込票を同封させていただきました。
 皆様の心強い応援をいただき、昨年10月発行のこあじろの森くらぶ通信38号からはカラー印刷した通信を皆さまにお届けしています。また、今年4月には赤星直忠博士文化財資料館の釼持館長、斎藤先生のご協力を得て「小網代の歴史を訪ねてみよう」シリーズのVを皆さまにお届けすることができました。
 2月の交流会の折には、今まで森の鳥リストに記録のなかった鳥に出会うことができ、ニシオジロビタキ、クイナ、ヒクイナの3種が新たにリストに追加されたのは嬉しいことでした。一方、春の森に外来種のアメリカフウロが群生するなど、気がかりな様子も見られ、森の自然を心に掛け見守ることの大切さを一層に感じています。これからも、ますます会の活動を活性化させ、皆さまとともに自然の中を歩き、元気と健康を保ってまいりましょう。森を愛し、自然を愛する皆さまに、是非会員の継続をお願いいたします。
年会費 1,000円(7月〜6月 入会金不要)
郵便振替 記号番号 00290-6-137203
加入者名  こあじろの森くらぶ
*恐れ入りますが、払込み料金をご負担ください
* 新入会員のお申し込みも歓迎いたします

 

 

 

 

 

予告「第9回こあじろの森くらぶ総会」

新しくなった南下浦コミュニティセンター(旧 南下浦市民センター)にて、第9回こあじろの森くらぶ総会を行うこととなりましたのでお知らせします。詳細は次号通信に掲載します。
月 日:2024年8月25日(日)
場 所:南下浦コミュニティセンター 2階多目的室T
時 間:午前11時30分より

ドキュメンタリー映画『掘る女 縄文人の落とし物』

自主上映のご案内

 ここ数年、私たちこあじろの森くらぶは小網代の昔が知りたいという思いから始まって、地元の方や専門家の先生のお話を聞いたり、みんなで遺跡を訪れたり、考古学を身近に感じる機会に恵まれました。三浦市の中にも旧石器時代、縄文時代、弥生時代、中世、現代にいたるまで本当にたくさんの遺跡があることを知りました。
 考古学は発掘されたモノから得られる情報がすべて。博物館に展示されている土器や土偶や鏃や石斧や勾玉もみんな土の中から掘りだされたモノ。そういえば以前、小網代の森へ通う道すがら発掘現場を見かけたことはありますが、いったいどうやって掘っていたのだろう?もっとよく見ておけばよかった。掘っていて何か出てきた時は嬉しいだろうな、そもそも誰が掘っていたの?などと思いを巡らせていたところ、そんな私たちにピッタリな映画があったのです。観たい!! 劇場での上映は終わっていましたが、自主上映という手段があることを知り、6月末に新設オープンする南下浦コミュニティセンターでの上映会を企画しました。「縄文」と聞いて、ワクワク ドキドキする人はぜったい面白いと思います。楽しげなチラシを同封しますので、じっくりとご覧ください。
日 程:2024年8月25日(日)13:30開場 14:00上映開始 終了16:00頃
会 場:三浦市南下浦コミュニティセンター 多目的ホール(定員84名) 入場無料。
上映費用応援のカンパ(任意)を頂けるとありがたいです。
どなたでもご参加いただけます。ご家族ご友人お誘いください。




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