開催日:2022年8月28日(日)13:30〜14:00
会場:新型コロナウイルス感染の影響を勘案し、リモート開催
開会のご挨拶
会員の皆さま スタッフの皆さま お変わりなくお健やかにお過ごしの事とお喜び申し上げます。 一昨年来の新型コロナウイルスの再々大感染が全国各地へ広がる中、私たちのこあじろの森くらぶの
第7回総会を迎える事となりました。参加者が一同に会することもなくリモート開催とはいえ、これも会員スタッフ皆さま方のご協力ご支援のお蔭と感謝しております。
昨年度の活動の中から幾つか主だったものを選んでみますと、2021年12月4日(土)第28回交流会では、こあじろの森を歩いた後に、三戸の光照寺のご住職からお話を聞く会がありました。後に「光照寺のご住職のお話を聴く会」という小冊子を発刊して皆さまへお配りしました。
次いで2022年4月2日(土)スタッフ研修としては、横須賀市光の丘水辺公園へニリンソウを見に出かけました。私は、北アルプスの上高地で大群落を見ておりますが、このような平地で見られるのは実に珍しいものでした。
通信No.32号では、こあじろの森中で撮影された、ノウサギの写真が紹介されております。昔、こあじろの森へ入るのには、藪やヌカルミが多く長靴を履かないと森中は歩けません。この時代、森はまだ狩猟が出来ましてイヌを連れたハンターを見ております。そして空の薬莢を幾つか拾っています。遊歩道等開発が進んた゛森の新時代に、絶滅したと思われた森中にはまだノウサギが健在とは実に驚きでした。
会員のみなさま、スタッフのみなさま、ご協力ご支援によりまして、今年も総会を迎えることができました。ご多用中のところ、ご参加頂きまして本当にありがとうございます。どうぞ、こあじろの森くらぶの行事へ参加して、くらぶ活動をご一緒に楽しまれることをお誘い致します。
祖父川精治(代読 松原あかね)
総会概要
令和4年(2022)8月28日(日) 「こあじろの森くらぶ」 第7回の総会が開催されました。出席者10名に、委任状38件を加えて、総会の資格確認がされ、議事に入りました。
コロナウイルスの影響による制限は解除されたものの、直前に変更される惧れがあったため、リモート開催といたしました。議長に加藤利彦氏が選出され、熟練の進行のもと議事は速やかに審議され、第1号から第6号まで全ての議案が全員一致で承認されました。
お忙しい中、委任状の提出にご協力くださった皆さま、ご参加くださった皆さまに深く御礼申し上げます。
橋みちよ
閉会のご挨拶
こあじろの森くらぶオンライン総会も違和感なく終了できました。いつまで続くぬかるみぞの思いで辛抱しながらのみなさまのご協力ありがとうございます。仲間の頭の中には総会で行いたいいろいろなイベントがあったはずですが、それら諸々の思いはコロナ禍が収束した後の楽しみとして積み重ねておきましょう。
一方では報告にもありましたように終了年度の活動はなかなか活発で、各種報告の出版などが充実していて目を見張りました。小網代の森やその周辺の歴史上の事実を知ろうと変形菌がどん欲に徘徊して栄養を吸収し最後に子実体を作り上げるがごときイメージがぴったりではないですか。思えば森の仲間のつながりは変形菌が憑依したのではないかとすなおに納得してしまえるところが恐ろしくも面白いところです。
新年度はどのような活動を見せることができますか、いろいろな制限をものともせずに行動するところは最強の生き物をほうふつとさせます。ウイルスも顔負けの新たな活動に期待して閉会の挨拶と致します。
高橋伸和(代読 橋みちよ)
ちょっとだけオフライン公開
第7回総会の第二部でホタルの紙芝居、「ゲンジボタルものがたり」を上演しました。
ホタルは日本の昔から人々に親しまれてきた昆虫です。例えば、平安時代、清少納言の枕草子の「夏」や紫式部の源氏物語25帖に蛍が登場しています。安土桃山時代の豊臣秀吉は「三の間の水は甘いか飛ぶ蛍」、江戸時代の松尾芭蕉は「昼見れば首筋赤き蛍かな」と詠んでいます。
昔から歌われてきたわらべうたの「ほ、ほ、蛍こい、あっちの水はにがいぞ、こっちの水はあまいぞ、ほ、ほ、蛍こい」は今も歌い継がれています。
2022.09.06 祖父川精治
享保13年(1728)6月7日、清国の商人により交趾(こうち)国「現在のベトナム」から、雌雄2頭のゾウが長崎へ到着した。徳川8代将軍吉宗へ献上するためである。将軍が珍獣ゾウをぜひ見たいというので中国人に移入を依頼したものという。吉宗はゾウを武器や武具として用いたかったといわれる。
依頼してから2年後ようやくベトナムから長崎へゾウが到着、しばらくは唐人屋敷で飼育されていたがメス5歳は病死してしまう。残されたオス7歳は約8ケ月間長崎で滞在飼育して、我が国の気候風土に慣らしたといわれる。翌年3月13日、吉宗は江戸まで全1300キロを徒歩で移動することを命じた。当時の造船技術では、ゾウを搭載して江戸まで回送するような大船は建造できなかったのである。
ウマやラクダと違ってゾウの足裏は扁平で、近い距離の力仕事には向いているが超長距離の歩行にはかなりの負担になっていたと思う。
道中の諸藩は、領内を無事に通過するよう宿泊や食べ物の用意等責任は重大である。そして、警護として役人20余名とゾウ使い2名と通訳に伴われて出立する。実に哀れで悲しいゾウである。
記録によると、長崎から小倉へ長崎街道、山陽道を歩き大阪京都、中山道を名古屋へ。東海道箱根越えをしてようやく江戸へ到着した。延74日間、沿道の住民達は驚きの連続であったと思われる。約3トンの巨体のゾウは蔽うこともなく、1日平均3〜5里(12キロから20キロ)を自らの足で歩いて行った。万一事故でも起こしたら責任重大、警護の人たちの苦労もおもいやられた。
京都へ4月26日着。宮中では第114代中御門天皇と霊元上皇がご上覧、実に洛中は大変な騒ぎであったと伝えられる。この時の様子を描いた、緒方探香筆の「象之絵巻物」が現存する。
浜名湖に架かる小橋は渡れないので、東海道を大きく迂回して浜名湖の北側を通過。急な本坂峠の登りではゾウが悲鳴をあげるような負担となったという。また、箱根越えも大変な難儀であったと伝わる。
江戸へ到着するまでに、幕府からは街道には縄を張れ、道を清めよ、寺の鐘は鳴らすな、イヌやネコを繋ぐ等、ゾウが驚かないよう怪我をしないようにと幾つものお触れが出された。将軍よりも、住み暮らす江戸町民の好奇心は次第に高まったものと思われる。江戸市中を練り歩き、のち浜御殿(現浜離宮)へ収容された。後日改めて、江戸城内で将軍吉宗、他諸大名多数とともに大広間で見物したといわれる。
ゾウは有名な鳥獣人物戯画にも描かれ、また「和名抄、935年」、「徒然草、1331年」にもゾウの記述がある。平安時代木造の普賢菩薩はゾウに跨っている。俵屋宗達筆、襖絵の白象図は有名。江戸時代以前から昔の人々はゾウの存在を知っていたと思われる。身近な例では、お寺や神社の欄間や本柱等へ想像上の動物として極色彩のゾウが刻まれていることがある。
江戸城下で飼育されていたが大食いで食費が嵩み、やがて中野村の富豪農家の源助へ預けられた。ゾウ小屋を建てて飼育、大勢の人達が見物に押し寄せたと伝えられる。フンを「象洞」と名付けて丸薬としたが売れ行き不振。その後、江戸名勝図絵に記載され現東京都中野区にある名刹の真言宗豊山派明王山宝仙寺へ葬られた。時に、寛保2年「1742」12月。惜しくも、その墓は先の大戦中に焼失してしまった。現在は、ゾウ小屋の跡地へ東京都中野区が建てた標識看板がある。
現在、ゾウは我が国の31施設に75頭が飼育、最大飼育施設は千葉県市原市にある「市原ゾウの国」の12頭である。2021年5月17日付の新聞報道によると、同園のゾウ2頭いずれも35歳が原因不明で急死したとある。