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昨年、12月の初頭の新聞の片隅にNHK2022年放送の大河ドラマは人気作家三谷幸喜作「鎌倉殿の13人」とあった。鎌倉殿とは源頼朝、頼家、実朝の3人の将軍のこと。では13人とは、北条義時(北条政子の弟)、大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、梶原景時、足立遠元、安達盛長、八田知家、比企能員、北条時政(政子の父)、三浦義澄、和田義盛の13人。その13人を巡って鎌倉幕府第2代執権となった北条義時を主人公として覇権を争う話なのだそうだ。
第19回交流会は不安が的中して、朝から雨になった。天気ならば小網代の森から東京湾への道の初めてのコース2つを下見していたのだ。引橋から役場下へのバス停というダウンヒルコースと引橋から三浦霊園を通って三浦霊園入り口バス停というダウンヒルコースは2つとも断念。
雨なので、バスで三浦半島の南の端から東京湾の南下浦巡りをしながら歴史上の人物、三浦義村の墓所や菩提寺を訪ねるコース。バスで三崎町まで先の参加者と一緒に行って、その後はのんびり喫茶店に入るお茶飲みコースの二つが提示された。
筆者は前者を選び、三崎港から剣崎回り三浦海岸行きのバスに乗り、岩浦で降りた。うろ覚えの三浦義村の墓所なので、バス停から足が動かない。その時、「こっちじゃない。」と右手の小高い丘に登る道を見つけたSさん。「三浦義村の墓」と言う看板が縦に石垣に取り付けてあった。もう、白い水仙の花が咲く石段を登ると南向きに平らな場所があり、さらに登ると看板に三浦義村の墓所との解説があった。その横裏に大きくかしいだ大きな石を載せた五輪塔のような石積みがあった。関東大震災で崖から海に転落したのを再び積み上げたものだそうだ。これが義村の墓とされるものだ。集会所のような建物があり、その西側に南向きの瓦を漆喰で積んだ白黒の凹型囲いがあり、その中に三浦義村の墓として、地元の有志が作った新しい立派な墓もあった。三浦の「丸に三つ引」の家紋が印象的だったが、花もなく、さっぱりとした風情だった。三浦義村・・・・。鎌倉幕府の有力な御家人だったはずの義村の墓のあまりにもさっぱりとした様子に、もう少し義村について調べてみようという気持ちになったのだ。
そんな気持ちの所に上記の「鎌倉殿の13人」の大河ドラマの記事を読んだのだ。きっと三浦義村もドラマの中に出てくるに違いない。
小網代の森の上部から西に向かい相模湾へ目をやり、右へ目線を動かしていくと三戸の部落と和田の里がある。そこは義村の従兄弟である和田義盛の居所と言われている。彼は鎌倉殿の13人の一人だ。また、その中に和田義盛の叔父である三浦義澄もいる。まさに小網代の森は彼らと共に生きてきたのだ。
さて、次は墓所から東に見えた緑色の屋根の福寿寺に向かう。小高い所にあったので、道路まで降りると道が分からない。大きい道、曲がりくねった細い道。ここでKさんの英断で細い昔風の道をとって歩く。少しずつ登っていってついに階段。長屋門をくぐると右側にある庚申塔6基をみる。宝暦、嘉永の年号が見られる。
ここは正治2年(1200)頃に三浦義村が創建したと伝えられ、菩提寺とも言われている。義村の鞍と鐙が宝物館のような防火建築の建物に納められているという。南極探検隊の西脇順三郎と冒険家の植村直己と多田雄幸の顕彰碑が現代彫刻の様をして寺の東寄りに立っている。
後から読んだ資料によると寺の裏山には十三塚という和田の乱で戦死した和田一族のものと思われる円墳が松塚と呼ばれ、2基残っているという。当時、最後に和田義盛を裏切った義村と知らずに頼って落ち延びた武士たちなのだろうか。
寺を後にして境内のお墓を見ながら、東側の車の通れる道を行く。下まで下る道と東に斜めに登る道があったので、冒険心から登る道をとる。左側は急な崖になっているので、今の海沿いの道路が出来る前は恐らくこの崖の上を通る道が唯一の道だったに違いない。果たせるかな見晴らしの良いところに4基の庚申塔がある。何よりもこれが証拠!
心の中で推理が当たったのを喜んだのです。後で調べるとここは鋒坂(とがりざか)と言われ、近くに鋒神社があり、寛政7年(1795年)一説に弟橘姫の槍を守った人々を祀ったと言われているそうだ。東京湾の海岸沿いに走水神社もあり、日本武尊の古い伝説も土地に残っている。
ここから小さな見晴らしのよい小さな台地の脇にまた、庚申塔と猿田彦大神の碑があり、坂を下って海岸道にでて、先ほど降りた金田バス停方面に歩く。Tさんは崖の下に置いてある蛸壺のようなものに着いている地衣類の写真撮り。屋根のある下りのバス停に雨を避けて、剣崎回り三浦海岸行きに乗っている仲間の乗ってくるバスを待つ。残念ながらこのバスには乗ってこなかったが、次の集合場所に急ぐので、慌てて乗車する。短い歴史コースは「鎌倉・遥かなり!」「義村!何者ぞ」課題を貰ったコースだった。
歴史組としてこのコースに参加したのだが、あまりにも何も知らなかったので、これを機会に三浦義村について、少しだけ調べたことを報告したい。
第2代執権の北条義時の13人の有力御家人の三浦義澄(相模・三浦郡矢部郷の領主)の次男で三浦氏の嫡流。生年不詳、没年1239年。
1180年(治承4年) 源頼朝の石橋山の戦いから父、三浦義澄、祖父三浦義明とともに参戦。
1180年(治承4年) 衣笠城を畠山重忠に攻められ、義明は討ち死に。三浦義澄・義村は「安房」に船で逃れる。海上で頼朝の船と遭遇した話は有名。父、義澄は頼朝の重臣として、義村と共に一ノ谷、壇ノ浦の戦い、奥州合戦に参戦。戦功をあげたとされる。
1199年(正治元年) 2代将軍源頼家を補佐する「13人」に三浦義澄・和田義盛が連なる。
1200年(正治2年) 梶原景時の変で追放に加担、義澄死去、家督は義村が継ぐ。 この頃、三浦市金田2062に菩提寺として、福寿寺を創建。
1205年(元久元年) 畠山重忠の乱に参加、二俣川での北条泰時の討伐軍に協力して出陣する。その後、讒言をした稲毛重成と泰谷重朝を鎌倉に経師谷にて殺害。重忠の息子重保を鶴ヶ岡八幡様の鳥居の側で家人に命令して殺させたという。石碑と宝篋印塔が今も鳥居の側にあるという。
1213年(建保元年) 従兄弟の和田義盛と同盟を誓って北条氏の打倒を志すが、直前に北条義時に謀反を告げたために和田一族は和田合戦の末、滅亡。(江ノ電、和田塚にその群墓がある。ちなみに畠山重忠の胸を射貫いた愛甲三郎はこの戦いで討ち死にしている。)
1218年(建保6年) 侍所所司(今でいう警察庁長官)に就任。
1219年(承久元年) 3代将軍実朝を八幡宮の銀杏の木の陰から討った公暁が、義村を頼って鎌倉の屋敷の塀を乗り越えようとしたところを、義村は北条義時の命で殺害。義村は駿河守を任官。
1221年(承久3年) 承久の乱の時、後鳥羽上皇の近臣となっていた弟の胤義が、上皇が北条義時追放の命令を出したことを義村に告げると、北条に教え、鎌倉幕府は後鳥羽上皇の討伐軍を京都へ。この時、尼将軍と言われた北条政子が「鎌倉殿のご恩」と御家人たちを説得した話は有名!
弟の三浦胤義は幕府軍に攻められて自刃。兄弟同士で争った形になる。
1224年(元仁元年) 執権北条義時が病死した後、後妻の伊賀の方が息子を執権に据えようとした伊賀の変の時はこれに加担しようとしたが、政子が直々、屋敷に単身で来て説得したので、伊賀氏を討った。
1225年(嘉禄元年) 執権北条泰時の元で評定衆が置かれた時、義村も加わっている。
1229年(安貞3年2月) 義村は4代将軍九条頼経の奥方の竹御所と泰村の妻(義村の娘)を三崎に招いて船の上で来迎阿弥陀の儀式を行う。終了後は島巡りをし、翌日の森戸海岸での昼餉は大ご馳走を用意させたと吾妻鏡にある。
1229年(寛喜元年4月) 義村は4代将軍九条頼経などを招いて三崎の船の上で阿弥陀来迎の粧(よそおい)を催し、舞楽などをさせた、船の上で踊っている女がいたりして、海も山も見事な景色だと吾妻鏡にある。
1232年(貞永元年) 北条泰時の御成敗式目制定に加わり署名もしている。
1237年(嘉禎3年8月) 将軍の鶴岡放生会に際し、お供に武力のある人間が少ないと勝手に自分の倅4人に武具を着けさせて周囲が唖然としたと吾妻鏡にある。
1239年12月31日(延応元年12月5日) 死去。脳卒中の突然死とされる。横須賀市大矢部の近殿(ちがた)神社に祀られている。駿河守、相模の守護、河内の守護、紀伊の守護、土佐の守護を務めた。北条氏に次ぐ、幕府の重鎮であった。いろいろな謀反の誘いも受けたが最終的に北条氏に加担した。三浦氏嫡流家の政治的地位向上させた人物であるという。
ある資料によると吾妻鏡に出てくる義村の名前は233回、和田義盛192回、義澄109回とある。私事で恐縮だが、「吾妻鏡購読」を受講していて、今、4代将軍九条頼経の時代を読んでいる。在位が1226年から1244年までなので、きっと義村の行動が記録されているに違いない。墓所の解説板には領主としては領民に温かく接し、慕われていたとあったので、そんな姿がうかがえないかと今から、楽しみにしている。
また、義村の死後、息子の泰村は1246年(宝治元年)源頼朝の墓のある法華堂で北条時頼に攻められ、500人全員が自決している。近くのやぐらに供養されている。ここは今も建物はなく、詳しい調査がされるのを待っている。ここに三浦氏は滅亡? したのだった。しかし、全国に三浦氏は散らばり鎌倉の和田塚に行ってみると、現代の三浦氏のどなたかが卒塔婆をあげて、冥福を祈っている。
横須賀市秋谷の淨楽寺では、和田義盛が運慶に作らせたという毘沙門天立像ほか四体が力強く私たちを迎えてくれる。遥かなり、身近なり鎌倉!
参考資料行程:三崎口駅→(三崎港経由)→岩浦(福寿寺)→三浦海岸
三浦一族の中世 高橋秀樹
相模三浦一族とその周辺史 鈴木かほる
三浦一族と相模武士 かなしん出版
炎環 永井路子
北条義時;これ運命縮まるべき端か(北条義時評伝) 岡田清一
今日の小網代 2020年1月25日(土) 交流会の下見に行ってきました。潮が高く水鳥は見られませんでしたが、雨のあとでブッシュの中や地上でたくさんの小鳥が食事をしていました。珍鳥は見られませんでしたが、モズがいたるところで見られ、モズ同道のようでした。ホオジロ、シジュウカラ、エナガ、アオジ、カシラダカ、メジロ、など S.B |
小網代の森は全面通行可能です 昨年の台風で大きな被害を受けた小網代の森ですが、復旧処理が完了し、全面通行可能です。 小網代の自然をお楽しみください。 |
2019.11.24(日) | 通信No.19印刷 スタッフ会議(横須賀市立 市民活動サポートセンター) |
2019.12.07(土) | 第19回交流会「小網代から相模湾・東京湾の眺望」 縁の会 (伊豆島 三浦海岸店) |
2020.01.12(日) | 第20回交流会下見 |
2020.01.26(日) | スタッフ会議(於 三浦海岸ジョナサン) スタッフ研修(三浦市海岸線) |
2020.02.02(日) | 第20回交流会「恒例 鳥いっぱいの谷と海2020!」 |
2020.02.09(日) | スタッフ研修(三浦市海岸線) 観音崎 |
2020.03.01(日) | スタッフ研修(三浦市海岸線) 雨崎・遠津浜 |
2020.03.22(日) | スタッフ会議(於 ベイシア) |
開 催 日 | : | 2020年4月29日(水・祝) *荒天中止 |
お待ち合わせ | : | 10:00 京浜急行三崎口駅前 |
解 散 | : | 15:00頃現地解散 |
持ち物 | : | 飲み物、お弁当、雨具、必要であれば図鑑、観察道具等 |
対 象 | : | 「こあじろの森くらぶ」会員とそのご家族、ご友人 |
* 保険はありませんので、ご参加は自己責任でお願いします。 |
ホタルの幼虫は去年の荒天に負けないでいるでしょうか、とても気になります。谷を下り、えのきテラスで休憩後、ホタルを観察しながら谷を上って帰る予定です。懐中電灯、軽食のご用意を。神奈川県から森の開放期間が発表されましたら、ハガキで改めてお知らせします。
新型コロナウイルスの被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。みなさまどうぞご自愛ください。